昭和54年12月29日 朝の御理解



 御理解 第92節
 「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けれたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」

 取次ぎに従うものに対する、まぁ御理解でしょうけれども、この御理解の中から強く感じられることは、おかげはその人の心次第であり、信心次第で決るのだということが感じられます。いわゆる守り守りの力とこう仰っておられる。ですから結局その力というのはその人の心しだいであり、その人の信心しだいである。言わば修行しだいであるということなんです。ですからこれは取次ぎに携わる者だけではなくて、信心させて頂くもの全部が分からなきゃならない事である。
 一生懸命修行しよる積りでも、その修行のいうならば焦点が間違っておるとか。心次第と仰せられるのだから、いよいよ自分の心を極めにも極めて、改まりに改まりに精進をするとかいわゆる信心。いわゆる信心次第なのですから、神様をどれ程信じておるかと。どれ程の真心がない様にあるか、本当にそういう神様を信ずるとか真心とかという信心をへて、いよいよ自分の心が神へ向かっていくという信心。いわいる信心。神人。深甚であると言う様な所を見極めながら、信心を進めて行かなければなりません。
 もうとにかく心次第だと言う事なんです。こんな小さい心ではおかげが大きいはずはない。こんなおろよい根性で心で神様がおかげおかげ下さる、徳を下さるはずはないというふうにです。心次第なんです。信心次第なんです。修行次第なんです。と言う様な事をこの御理解からは強く感じます。これはいつもそう思います。取次ぎに携わっておる先生が朝寝をしておったら、信者そげん早ようから参ってくる信者はおらんっち。いわゆる力次第だとこう仰る。もう結局自分自身に良くするところになるんです。
 昨日は竹葉会でしたが、昨日佐田先生が司会で、たいがい半分ぐらいの方たちの発表で終わりまして、まだ時間が足りないようにありましたけれども、その中に福岡の伊藤さんが発表しておられましたが、もうそれがいたく私に心を捕えた。いや感じた訳です。というのはそのうお話が上手とか何とかということじゃないけれども、あのう一心発起ということですね。自分は長いいうならば信心はもう何年もしておったけれども、御造営がいろいろいるようになり。
 始めてまぁ自分で自分ながらに言っているのだから間違いないですけれども。一年の信心でどうして自分の心がこんなに、変わっただろうかというておられます。それはねだらだらとした信心の時には、ただまぁおかげを頂くお願いをすると言う事ばっかりだった。ところが女ながらも一心発起した。いわいる御造営にいうならば、今日の御理解でいうならば命を懸けたからには、いうなら自分自身が改まらなければならない。ただ神様にお願いをいした。なら大きな願いだけを立てたというだけならん。
 為には自分が改まらなければならない。長い信心を通してただこの一年の間にです。これほどの心。そして最後に言っておられますが、この調子でいったら、五年後、十年後の自分は、どういう自分になるだろうかと思うてと言っておられます。それで私は申しました。もう、いよいよ明神様だねというて申しましたことでした。教祖の神様の右の御結界に対する、左の御結界の中で合い向かわれるといわれるほどしに、ご神徳を受けられた、高橋とみえという先生が、女の先生がおられました。
 それをにしろくの明神様とこう申し上げたんですねと仰る。だから、明神様とはそういう意味なんです。その調子でいったらもういよいよ明神様だよというて話したことでした。自分ながら一年間でどうしてこんなに変われただろうかとこう言ってるんです。そしてそのおかげの余波というものが、私が例えば黙って治める。もう土の信心に極まったという信心をさせて頂いておりましまたら、非常に気の短い主人がこの頃、黙って治めるというか話しもしませんけれども。
 その黙って治めるという、その生き方を自分自身も成しておるのに気付いた。驚いたという意味の話しでした。それで御道の信心をさせて頂いて本気でその事に取り組んだら、自分が助かるだけではなくて、周囲のものが助かる。主人までが子供達までが、お母さんの信心についてくるじゃなくて、そういう生き方をするようになっておるのに驚き、または有り難いと思うた、いわいる信心の喜びと驚きである。もう短刀直にパンパンとこうやかましゅう言わなきゃ出来なかった主人が。
 この頃はそれをね、それを時間を置いてしか言わんようにうなりましたと。また恐らくは一日なら一日、それを言いたいことをポンと言わずにおいておって、とうとうそれを言わんなりに治めていっておるというものが、主人に感じられるとこういっておられるんです。私はそれを聞きながらね、本当に素晴らしいと思いました。なるほど周囲の人が助かるようになってきておるということも事実です。
 先日からちょうどお参りをしておる時に、佐賀の佐賀支部の共励会に、先生方行こうとしておる時でしたから、車がもう一人乗れるのというんで、そんなら私もいっちょおかげを頂きたいというて、そのまぁ自分のありがたいものを誰にでも聞いてもらわずにはおれないと言った様な、衝動でしょうね、最後までもおい出られると言う様な事でした。だから一心発起して教えにそう、もうこのうまぁ笑い話的にはいいです。イギリスみんな、例えば、ある婦人がいってました。
 去年の元旦に「はい」という、くじを引き当てたというんです。いつもここで言われるように、もし合楽教会に家蔵財産が沢山でけてあるとするならば、それは大坪総一郎、私の「はい」の一字から生まれたんだと「はい」の中から生まれたんだというふうに申しますでしょう。神様が右と言えば右。左と言えば、左にいやぁどげんことはでけませんというたことがいっぺんもなかったです。どんな例えば他愛もないような事柄であろうが、どんな難しいことであろうができんなりにでも。
 やっぱり「はい」というて泣き泣きそれに、従ったというその「はい」から合楽の今日が生まれておるんです。というふうに聞いて頂くでしょう。そういう意味の御理解からヒントを得たんでしょう。くじ引きに「はい」と書いてあった。「もう今年は、この「はい」でいこうと決めた。そして、一年間を締めくくってみて、いい加減な「はい」であるのに自分ながら驚いたという話しをある婦人がしてました。
 それで私は申しました。これはもう来年もその「はい」でいかんのって私が申しました。もう新しいくじ引き引くことはいらんばのと。今年それがでけなかったなら、その「はい」を来年も持ち越してその徹底した「はい」にならんのと。問題は信心はね、徹しなければダメです。でなかったらここにあるような守り守りの力でと言う様な力は付きゃしません。その一年間その今年「はい」で行こうと思うたけれども実際はできていなかったというのを、来年にも持ち越せと私が言う様に。
 なら方や伊藤さんの方は、言わば土の信心に極まった。もうとにかく黙って治めるということに、徹しぬかせて頂いたら、主人まで言わば、黙って治めるという生き方を身につけようと一生懸命努力して、精進しておるのが感じられると。そういう一心発起をしてです。そしてなら神様のお喜びを頂ける様な事にも、いうなら手にも足にもならせて頂こうと言う様な願い。いわいる御造営にかけられたと。そこに自分でです。それこそ自分のことをそういう表現は、なかなかでけませんけれども。
 たった一年の間にどうして自分がこんなに変わったであろうかと。十年もしたらどんなに変わるだろうかと思うて、楽しみだとこういう。それで私がもうとにかく十年もすれば明神様じゃがと私が申しました。もう本当その参りよるの御理解を、いわいる「日参、聴教」しよるというてもです。そこに焦点をおかなければ、精進しなければです。信心が楽しいもの、有り難いものになってこない。もう自分ながら、どうしてこんなに変わっただろうかと言う様なものになってこない。
 そこからまぁ「守り守りの力」と言われる。いうならばまぁ最初に申しましたように心次第だよ。信心次第だよ。修行次第だよとおかげは。またお徳も。だからはぁ自分のこんくらいの信心じゃね、自分の心を覗いた時に、こげな浅ましい心ではっと気づかせて頂いたら、それに本気で本気で取り組む。本気で修行に取り組むという、徹した修行に取り組むという、それが自分と言う事なんです。
 おかげの受けらるのを受けられないのとこう申しますけれども、結局はいうなら心次第だよと。修行次第だよ。信心次第だよと言う事に極まります。だから何かの機会、なにかの機会に自分の心がそういう一心発起の出来れる心のお繰り合わせを願わなきゃならん。形のお繰り合わせを願う前に、先ず心のお繰り合わせを願えとは、そんな事じゃないでしょうかね。
   どうぞ。